趣味の話・・・怨霊です。。。
先日、病院に行った折、久しぶりに本屋に寄りました。
探していたのは、なんだか売れたと言う「応仁の乱」(確か「わかりやすい」とか?)ま、アマゾンで注文すれば済む話ですがついでなので。大き目の本屋だったのですが見当たらず別の本を買いました。
「怨霊とは何か」怨霊大好きな私(苦笑)はビンボーな中、思わず買ってしまいました。
内容はどうやら三大怨霊らしいです。三大怨霊とは菅原道真、平将門、崇徳院の事です。三大怨霊と言われる理由は国を揺るがす程のタタリを起こしたから。中でも崇徳院は「日本一の大魔縁」と言われ恐れられた大魔王です。しかしこれらの逸話は江戸時代の歌舞伎や謡曲などの創作物の影響である、というのが本論らしい。
前文で「霊魂とは何か」で日本の霊魂感を解説されているのですが、毎度ながらちょっと引っかかりました(またかい!!)万葉集の霊魂を詠んだ歌から「古代の時代、天皇家は神として天に昇るという意識が既にあった」と解説しています。その例が弓削皇子(ゆげのみこ)の死を悼んで詠んだ歌。弓削皇子は天に上り「神ました」(神殿に鎮座)。同じ時期、庶民は土葬だったので「山」へいったらしいこと。「山は異界」つまり山は霊界だった。
・・・だけど、弓削皇子と同じ時期の「大津皇子」は何故か「山の異界」に行ったと言う。ちなみに弓削皇子も大津皇子も同じ時代の人でおなじく天武天皇の皇子。弓削皇子は天に行き「神まして」、一方大津皇子は「山の異界」に行くって・・・なんかおかしくないかしらん??
この本をまだ全部読んでいないのですが、前文を読む限り「怨霊信仰」の一番最初は通説通り、早良親王(さわらしんのう)としています。
以前書きましたが早良親王とは桓武天皇の同母弟で皇太子だった人。しかし、桓武天皇は後から生まれた自分の子に後を継がせたくて罪をでっち上げて早良親王を廃皇子してしまいます。早良親王は無実を訴え食を断ち餓死。憤死(いかりを抱えたまま死ぬ)しました。この早良親王の怨霊を恐れた桓武天皇は794年、京都に都を移します。これが一番最初の怨霊と言われているし、歴史の通説ですが・・・これだといきなり突然、桓武天皇は怨霊を恐れ始めた、という事になります。まあ、おそらく看病禅師や呪禁師が「これは早良親王の怨霊のせいだ」と言ったんだと思いますが、本当にここでいきなり怨霊信仰が始まったのでしょうか。
歴史家の中では否定されてるようですが、実は早良親王以前から怨霊信仰はあったと言います。これを言ったのは小説家や哲学者、在野の研究家。早良親王のタタリはあまりにもすごかった?ので隠しきれず、仕方なく正史に載せたのだと。それ以前にも怨霊が跋扈していたからこそ桓武天皇は「怨霊のせいだ」と言われて都を移すまでの事をしたというのです。
ちなみにそれ以前の怨霊ではないかと言われている方々は聖徳太子、山背大兄王(聖徳太子の子)、有間皇子・・・そして「大津皇子」。
この著者の方はしらないうちに「大津皇子は皇子でありながら、山という異界にとどまった」事を言ってるんですよね。それって大津皇子がプレ怨霊(まだ正式に怨霊と認められてないから)だったからではないでしょうか・・・って、狙ってこう書いたのかしら???ちなみにこの時代 高貴な人が亡くなれば殯(もがり)をしたはず。7世紀後半ですから古墳は作られず・・・土葬になったのです(つーか、二子山の山頂に埋めたとある)
「天に上る」方も「山の異界」に行く方もまず同じく母なる大地に埋められたんですねえ。火葬は700年、僧の道昭からと言われます。天皇の最初の火葬は702年崩御の持統天皇だそうです。火葬は煙となり天に上る。そして万葉集では「雲」になったそうです。
・・・まだ途中(というよりまだ1章)なので読み進めたらまた感想を書こうかと思います。
探していたのは、なんだか売れたと言う「応仁の乱」(確か「わかりやすい」とか?)ま、アマゾンで注文すれば済む話ですがついでなので。大き目の本屋だったのですが見当たらず別の本を買いました。
「怨霊とは何か」怨霊大好きな私(苦笑)はビンボーな中、思わず買ってしまいました。
内容はどうやら三大怨霊らしいです。三大怨霊とは菅原道真、平将門、崇徳院の事です。三大怨霊と言われる理由は国を揺るがす程のタタリを起こしたから。中でも崇徳院は「日本一の大魔縁」と言われ恐れられた大魔王です。しかしこれらの逸話は江戸時代の歌舞伎や謡曲などの創作物の影響である、というのが本論らしい。
前文で「霊魂とは何か」で日本の霊魂感を解説されているのですが、毎度ながらちょっと引っかかりました(またかい!!)万葉集の霊魂を詠んだ歌から「古代の時代、天皇家は神として天に昇るという意識が既にあった」と解説しています。その例が弓削皇子(ゆげのみこ)の死を悼んで詠んだ歌。弓削皇子は天に上り「神ました」(神殿に鎮座)。同じ時期、庶民は土葬だったので「山」へいったらしいこと。「山は異界」つまり山は霊界だった。
・・・だけど、弓削皇子と同じ時期の「大津皇子」は何故か「山の異界」に行ったと言う。ちなみに弓削皇子も大津皇子も同じ時代の人でおなじく天武天皇の皇子。弓削皇子は天に行き「神まして」、一方大津皇子は「山の異界」に行くって・・・なんかおかしくないかしらん??
この本をまだ全部読んでいないのですが、前文を読む限り「怨霊信仰」の一番最初は通説通り、早良親王(さわらしんのう)としています。
以前書きましたが早良親王とは桓武天皇の同母弟で皇太子だった人。しかし、桓武天皇は後から生まれた自分の子に後を継がせたくて罪をでっち上げて早良親王を廃皇子してしまいます。早良親王は無実を訴え食を断ち餓死。憤死(いかりを抱えたまま死ぬ)しました。この早良親王の怨霊を恐れた桓武天皇は794年、京都に都を移します。これが一番最初の怨霊と言われているし、歴史の通説ですが・・・これだといきなり突然、桓武天皇は怨霊を恐れ始めた、という事になります。まあ、おそらく看病禅師や呪禁師が「これは早良親王の怨霊のせいだ」と言ったんだと思いますが、本当にここでいきなり怨霊信仰が始まったのでしょうか。
歴史家の中では否定されてるようですが、実は早良親王以前から怨霊信仰はあったと言います。これを言ったのは小説家や哲学者、在野の研究家。早良親王のタタリはあまりにもすごかった?ので隠しきれず、仕方なく正史に載せたのだと。それ以前にも怨霊が跋扈していたからこそ桓武天皇は「怨霊のせいだ」と言われて都を移すまでの事をしたというのです。
ちなみにそれ以前の怨霊ではないかと言われている方々は聖徳太子、山背大兄王(聖徳太子の子)、有間皇子・・・そして「大津皇子」。
この著者の方はしらないうちに「大津皇子は皇子でありながら、山という異界にとどまった」事を言ってるんですよね。それって大津皇子がプレ怨霊(まだ正式に怨霊と認められてないから)だったからではないでしょうか・・・って、狙ってこう書いたのかしら???ちなみにこの時代 高貴な人が亡くなれば殯(もがり)をしたはず。7世紀後半ですから古墳は作られず・・・土葬になったのです(つーか、二子山の山頂に埋めたとある)
「天に上る」方も「山の異界」に行く方もまず同じく母なる大地に埋められたんですねえ。火葬は700年、僧の道昭からと言われます。天皇の最初の火葬は702年崩御の持統天皇だそうです。火葬は煙となり天に上る。そして万葉集では「雲」になったそうです。
・・・まだ途中(というよりまだ1章)なので読み進めたらまた感想を書こうかと思います。