観応の擾乱の前の話・・・ですねえ。
前回「観応の擾乱」という本が中公新書から出てそれについ書こうかと思いましたが、なんかまとめられなさそう(汗)…だったので断念。今回、病院から帰ってきたということで再度挑戦、ですけどなんせ南北朝が絡みますからねえ・…。まず、そこからですか…。
そもそもの発端は後嵯峨天皇。時代はまだ鎌倉時代ですが後嵯峨天皇が皇統を二つに割ってしまったのです。どういう事かと言うと嵯峨天皇は院政を行うため皇太子の後深草天皇に皇位を譲り上皇になります。が、約10年後に何故か「弟に皇位を譲れ」と命令。(上皇、法皇に権限がある)院政期なのでその命令は実行され弟は亀山天皇になりました。
なんでこんな事したんでしょう?「鎌倉幕府の画策」というのが教科書の答え。でも幕府はその後、兄弟二つに割れた「皇室」の仲を取り持ち、北条時宗は「皇位は兄、弟の家系で順番にすること」という解決案を出します。つまり
①後深草天皇(兄)ー④伏見天皇ー⑤後伏見天皇 …(持明院統)→後の北朝
後嵯峨天皇< ⑦花園天皇
②亀山天皇(弟) ―③後宇多天皇ー⑥後二条天皇 …(大覚寺統)
⑧後醍醐天皇 ーーー→後の南朝
…と、いった具合。兄の系統、弟の系統との持ち回りになってしまった皇位。各系統が院政を行った場所にちなみ兄の系統を「持明院統」、弟の系統を「大覚寺統」と言いました。また、この「皇位を両統でやり取りする事」を「両統迭立(てつりつ)」と言いました。「迭立」とは「並び立つものが順番に」という意味だそうです。
この辺はもー、わかんなかったですね。なんでこうなったんでしょう???幕府から見たら「最高権力が二つある」ということは最悪だと思うのです。例えば幕府に反対する勢力があった時、「最高権力が二つ」しかも対立してたら幕府が重きを置いていない方に駆け込んで「幕府を倒しましょう」とそそのかしたりもできる。それこそ一方から「朝敵である鎌倉幕府を討て」なんて治罰の綸旨が出されてしまう、こんな事にもなりかねない。実際、そうなって大変なことになっていくんですけど。
こんな不利なことホントに「幕府が画策」したのか???そう疑う説も少なくありません。
時代が下がって徳川家康が本願寺を西と東に別けた。「戦国最大の怪物」と言われた一向宗「一向一揆」本願寺。ゲーム「信長の野望」だと大抵一向一揆も普通の一揆に「毛が生えた」程度のものですが、本当は信長がその本拠石山本願寺を10年攻めて全く落とせなかった。しかも女子供まで住民全員が戦闘員。ベトコン顔負けです。確かに毛利の後押しもありましたが水軍戦で織田水軍が勝利してからも頑強に抵抗され、結局朝廷を動かし時の天皇から調停案を出してもらって開城させました。後々「刀狩り」して住民の牙を抜いた後も秀吉、家康ともに「本願寺奉行」というものを置いてるくらいです。家康はまだ三河の小大名時代に一向宗に手痛い目にあわされている。一向宗を挑発し鎮圧しようとしたら、有力な家臣の中からも一向一揆に参加するものが多数出たからです。家康の懐刀、本多正信はこれで三河を出奔。後にまた仕えることになります。
だから家康は宗教の恐ろしさを身をもって知っていたんでしょうねえ。一向宗は「死後は必ず極楽浄土」。この辺りはキリスト教など一神教にも似てますし。そこで家康は本願寺を東西二つに別けました。すると二派は「こっちが正統、向こうは枝葉」と主張し始め対立。つまり互いに「敵」をつくり御上に反抗しないようにしたと言われています。これはインドを支配していたイギリスが撤退する時、インド国内のイスラム教徒に「パキスタン」をつくらせそれを国家として認めた、と同じ意味ですね。パキスタンというムスリムの国ができたおかげでインドはイギリスのこれまでしてきた酷い植民地政策をあまり攻めなくなり、むしろ同族であるパキスタンと争い始めた。これがイギリス、そして家康の目的でした。
ただ確かに家康の本願寺政策は成功しましたがこれは「刀狩り」という武力を奪っていたため。インドとパキスタンの対立は激化しご存知の通り「核兵器競争」に発展、両国が核保有国になって冷戦化しました。思えば中東といい世界の大問題の半分以上はイギリスのせいじゃないのかしら?それもすべては「ひどい植民地政策」を隠すため。翻って見るとインフラ整備までした国が恨まれるという皮肉。結局「負けた国」は「国破れて山河あり」の心境になりますねえ。。。でも、これももしかしたらアメリカによる分断政策???
ちと話がずれましたが以上と同じように、幕府の目的は「朝廷に派閥をつくる事」「それを相争わせること」により「弱体を図った」…のでしょうか?この政策の中心は六波羅探題(幕府による朝廷を監視する機関)でしたがホントにそこまで考えて動いてたのかしら?
ともかく、天皇家が兄、弟の系統に分かれてしまった。そのうち「弟が天皇になれるなら私も」とばかりに系統内での弟までもが天皇になりはじめました。最初の図の最後、4人になったのはそれが原因。こうなってしまったら本来、こんなことは無いのですが天皇でいられる期間というのが決められました。それはほぼ10年。10年経ったら別系統に皇位を移さなければならない。
しかし図の中で最後の⑧後醍醐天皇。この御方も任期は10年と決められていました。しかし弟の系統でその中でも弟である後醍醐天皇は何故か「皇位は自分の系統が今後継いで行くべきだ」と考えました。とにかく一番高貴であると考えていたとしか思えません。なんでそうなのか…よくわかりませんけど、今後の行動がそう示しています。兄は早死にしましたがその息子を差し置いて「皇統は朕が子孫が継いで行く」と決断。その為にしなければならないこと、それが鎌倉幕府を倒す事でした。
…今でこそ、こういう流れがわかりましたが高校時代は無理でしたねえ(苦笑)歴史って面白いと思ったのは何度も書きますが「鬼がつくった国・日本」を読んでから。でも最近の小松先生は…個人的にはちょっと残念な感じです。どシロウトの見方に過ぎませんが「木を見て…」な感じがするんです。。。。。。
そもそもの発端は後嵯峨天皇。時代はまだ鎌倉時代ですが後嵯峨天皇が皇統を二つに割ってしまったのです。どういう事かと言うと嵯峨天皇は院政を行うため皇太子の後深草天皇に皇位を譲り上皇になります。が、約10年後に何故か「弟に皇位を譲れ」と命令。(上皇、法皇に権限がある)院政期なのでその命令は実行され弟は亀山天皇になりました。
なんでこんな事したんでしょう?「鎌倉幕府の画策」というのが教科書の答え。でも幕府はその後、兄弟二つに割れた「皇室」の仲を取り持ち、北条時宗は「皇位は兄、弟の家系で順番にすること」という解決案を出します。つまり
①後深草天皇(兄)ー④伏見天皇ー⑤後伏見天皇 …(持明院統)→後の北朝
後嵯峨天皇< ⑦花園天皇
②亀山天皇(弟) ―③後宇多天皇ー⑥後二条天皇 …(大覚寺統)
⑧後醍醐天皇 ーーー→後の南朝
…と、いった具合。兄の系統、弟の系統との持ち回りになってしまった皇位。各系統が院政を行った場所にちなみ兄の系統を「持明院統」、弟の系統を「大覚寺統」と言いました。また、この「皇位を両統でやり取りする事」を「両統迭立(てつりつ)」と言いました。「迭立」とは「並び立つものが順番に」という意味だそうです。
この辺はもー、わかんなかったですね。なんでこうなったんでしょう???幕府から見たら「最高権力が二つある」ということは最悪だと思うのです。例えば幕府に反対する勢力があった時、「最高権力が二つ」しかも対立してたら幕府が重きを置いていない方に駆け込んで「幕府を倒しましょう」とそそのかしたりもできる。それこそ一方から「朝敵である鎌倉幕府を討て」なんて治罰の綸旨が出されてしまう、こんな事にもなりかねない。実際、そうなって大変なことになっていくんですけど。
こんな不利なことホントに「幕府が画策」したのか???そう疑う説も少なくありません。
時代が下がって徳川家康が本願寺を西と東に別けた。「戦国最大の怪物」と言われた一向宗「一向一揆」本願寺。ゲーム「信長の野望」だと大抵一向一揆も普通の一揆に「毛が生えた」程度のものですが、本当は信長がその本拠石山本願寺を10年攻めて全く落とせなかった。しかも女子供まで住民全員が戦闘員。ベトコン顔負けです。確かに毛利の後押しもありましたが水軍戦で織田水軍が勝利してからも頑強に抵抗され、結局朝廷を動かし時の天皇から調停案を出してもらって開城させました。後々「刀狩り」して住民の牙を抜いた後も秀吉、家康ともに「本願寺奉行」というものを置いてるくらいです。家康はまだ三河の小大名時代に一向宗に手痛い目にあわされている。一向宗を挑発し鎮圧しようとしたら、有力な家臣の中からも一向一揆に参加するものが多数出たからです。家康の懐刀、本多正信はこれで三河を出奔。後にまた仕えることになります。
だから家康は宗教の恐ろしさを身をもって知っていたんでしょうねえ。一向宗は「死後は必ず極楽浄土」。この辺りはキリスト教など一神教にも似てますし。そこで家康は本願寺を東西二つに別けました。すると二派は「こっちが正統、向こうは枝葉」と主張し始め対立。つまり互いに「敵」をつくり御上に反抗しないようにしたと言われています。これはインドを支配していたイギリスが撤退する時、インド国内のイスラム教徒に「パキスタン」をつくらせそれを国家として認めた、と同じ意味ですね。パキスタンというムスリムの国ができたおかげでインドはイギリスのこれまでしてきた酷い植民地政策をあまり攻めなくなり、むしろ同族であるパキスタンと争い始めた。これがイギリス、そして家康の目的でした。
ただ確かに家康の本願寺政策は成功しましたがこれは「刀狩り」という武力を奪っていたため。インドとパキスタンの対立は激化しご存知の通り「核兵器競争」に発展、両国が核保有国になって冷戦化しました。思えば中東といい世界の大問題の半分以上はイギリスのせいじゃないのかしら?それもすべては「ひどい植民地政策」を隠すため。翻って見るとインフラ整備までした国が恨まれるという皮肉。結局「負けた国」は「国破れて山河あり」の心境になりますねえ。。。でも、これももしかしたらアメリカによる分断政策???
ちと話がずれましたが以上と同じように、幕府の目的は「朝廷に派閥をつくる事」「それを相争わせること」により「弱体を図った」…のでしょうか?この政策の中心は六波羅探題(幕府による朝廷を監視する機関)でしたがホントにそこまで考えて動いてたのかしら?
ともかく、天皇家が兄、弟の系統に分かれてしまった。そのうち「弟が天皇になれるなら私も」とばかりに系統内での弟までもが天皇になりはじめました。最初の図の最後、4人になったのはそれが原因。こうなってしまったら本来、こんなことは無いのですが天皇でいられる期間というのが決められました。それはほぼ10年。10年経ったら別系統に皇位を移さなければならない。
しかし図の中で最後の⑧後醍醐天皇。この御方も任期は10年と決められていました。しかし弟の系統でその中でも弟である後醍醐天皇は何故か「皇位は自分の系統が今後継いで行くべきだ」と考えました。とにかく一番高貴であると考えていたとしか思えません。なんでそうなのか…よくわかりませんけど、今後の行動がそう示しています。兄は早死にしましたがその息子を差し置いて「皇統は朕が子孫が継いで行く」と決断。その為にしなければならないこと、それが鎌倉幕府を倒す事でした。
…今でこそ、こういう流れがわかりましたが高校時代は無理でしたねえ(苦笑)歴史って面白いと思ったのは何度も書きますが「鬼がつくった国・日本」を読んでから。でも最近の小松先生は…個人的にはちょっと残念な感じです。どシロウトの見方に過ぎませんが「木を見て…」な感じがするんです。。。。。。