ハッタリ、ハッタリ、でもハッタリではなかった!!
部屋の前の桜が芽吹きはじめて5分咲ほどになっています。
最近暖かい日が続き、微妙に体調も崩れがち。明日は都内の病院へ出向きます。
先日ハッタリな人?を書きましたが、ハッタリに見えてハッタリじゃない人もいると思い出しました。
学生の頃、友人に三国志に詳しい人がいて「日本の武将には中国のような戦略眼を持った武将がいない」と言っていました。が、自分にはそうは思えず「楠木正成(くすのきまさしげ)は戦略家じゃない?」と言いました。ですが、「あんなのゲリラ戦法だ」の一言で返されてしまいました。当時、三国志をほとんどしらなかったので黙ってしまいました。
後に何故「三国」志かというと「本当に有能な人物」がいなかった時代だったからダラダラと3国で戦いが続いたというのを読んで納得させられました。天才、諸葛孔明のあだ名は「伏龍」(龍が伏せている)。伏せているだけなので立てばすぐ「龍」・・・のはずなのに、劉備玄徳の死後、「独り立ち」しても三国家統一できずに死んだと聞かされました。
でもしかし現在も三国志に詳しくない自分はまた聞きだったりまたまた聞きだったりなので何とも言えません。間違っていたらすみません。。。けど・・・これだけ聞くとホントはあんますごい人物が出てない時代だったんじゃないの?との思いも出てきてしまいます。
それに、その友人、今思うと世に通説としてある三国志を史実と思ってたフシがあるんですよね。一般に流布している三国志は「三国志演義」を元にしており、これは「通俗歴史小説の先駆」と評されるように 千年以上も後の明時代になってから書かれた娯楽小説なのです。
楠木正成も「三国志」よろしく「太平記」という物語の中での姿が一番多い。ただ太平記は後醍醐天皇の崩御後20~30年には成立してましたし、足利方の武将今川了俊の「難太平記」という反論文?もあることから「三国志演義」よりはまだまだ信用がおけるものじゃないかなあと思います。(一部と二部だけですけど。三部からファンタジー小説になってしまいます)その他、当時の日記や足利幕府の記録にも残されており、そこからも推察されています。
楠木正成の出自は諸説ありハッキリとは判りませんが、河内国(大阪南部)の土豪だったのは確かです。当時、身分の上下が厳しく、河内の土豪程度が天皇という超身分の方と「直答」(直接話すこと)できるなんて事はありえないのです。が、後醍醐天皇はこのような「(身分的に)卑しい武士」とも屈託なく交わったそうです。なにせ真言立川流という有名な「淫祠邪教」にも手を出していたと言われている程ですから。この後醍醐天皇ですがちょっと誤解というか良いほうに見られているところがあるんですよね。
例えば「民のために四海を太平にならしめる」事を遺言として崩御します。この遺言を守り遺児の「後村上天皇」は北朝が滅ぶまで戦う事を胸にする・・・のです。おかげで、子孫の南朝はなかなか妥協をしませんでした。しかして本当に目的は「民のため」だったのでしょうか。
鎌倉時代の中頃、後嵯峨天皇というお方がおりました。この後嵯峨天皇はどうやら長男より次男の方が好きだったらしく、長男が天皇になるとすぐ、次男に天皇を譲るようにしました。この事が原因で天皇家は2派に別れてしまいます。持明院統と大覚寺統に。後醍醐天皇はこの2派のうちの大覚寺統の一人であり、しかも次男。ですが後醍醐天皇は「自分の子孫だけが天皇家を今後、継いで行くべきだ!絶対絶対にだ!!」と考えたようです、つまり「天皇家を継ぐにふさわしいのは自分だけだ」なんでそうなるのかはさっぱりわかりません。だって2派のうちの1派、しかも長男ならまだしも次男の家系なんです。でもそれだけエネルギッシュな御方だったという事は確かです。
物語には主題がある場合があります。例えば平家物語。その出だし。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」そう平家物語の主題は「諸行無常」。あれだけ栄華を誇った平家、倒せるとは思えなかった平家もむなしく散る。この世に絶対などありえない。全てこの世は諸行無常・・・ってことでしょうか。
では太平記。「(・・・天の徳なり。)もしその徳欠くる時は、位ありとても持たず。・・・戒めを既往に取らざらんや。」(天の徳、それが欠ける場合にはいくら高い位であってもそれを維持することはできない。歴史を見て学ぶべきだ)
これって後醍醐天皇を指して言ってるんですよねえ、やっぱし。相手は天皇なので直接酷いことは書かれてないというか書けない。ので、ぼやかしてある。太平記はそんな感じらしいんです。でもやっぱり結論は「徳が無い帝王は滅ぶ」が主題。太平記を読むと前半の主人公、後醍醐天皇はびったし当てはまってしまうんですよね・・・💦忠実な家臣を裏切ったり(その家臣は鎌倉幕府に斬首される)地方に出向く自分の皇子にもウソをついたりと・・・そして後醍醐が始めた建武の親政のめちゃくちゃさは二条河原の落書(落書き)で表されました。
「この頃 都に流行るもの 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨(ニセの天皇の命令書の事)」
ニセモノが簡単につくれる、それくらい綸旨を乱発していたんです。しかも朝令暮改(朝の命令が夕には変わる)も数々。武士たちは不満がつのっていきます。結果、源氏の名門 足利尊氏に武士の期待が集まる。当然、後醍醐天皇は面白くなかったのでしょう。尊氏が恩賞に「征夷大将軍」にしてくれと何度もお願いするが、それは絶対に許さなかった。「征夷大将軍」は武士の棟梁であり武士の統括者。これに任命しては「幕府」を開かれてしまう。武士たちの政治が始まる。天皇親政をめざしていた後醍醐天皇はいくら酷い政治だと言われようがそれだけは許せなかったのです。。。
オッサンの方々(笑)にはわかると思いますが 昔「ゴダイゴ」ってバンド?があったんですよね。印象深いのは「西遊記」(実写版)の主題歌「モンキー・マジック」そしてエンデイング曲「ガンダーラ」。このバンド名「ゴダイゴ」はこの後醍醐天皇から取ったそうです。理由は「なにかエネルギーを感じたから」だそうで。事実、後醍醐天皇には帝王としての格というか凄みがあったそうです。しかし、それは「徳がある」という事にはどうやらならなかったようですねえ・・・。
で、やっと楠木正成の出番ですが・・・今日も調子が無くなってきました💦💦
続きは書けたら後ほどに・・・・🙇
最近暖かい日が続き、微妙に体調も崩れがち。明日は都内の病院へ出向きます。
先日ハッタリな人?を書きましたが、ハッタリに見えてハッタリじゃない人もいると思い出しました。
学生の頃、友人に三国志に詳しい人がいて「日本の武将には中国のような戦略眼を持った武将がいない」と言っていました。が、自分にはそうは思えず「楠木正成(くすのきまさしげ)は戦略家じゃない?」と言いました。ですが、「あんなのゲリラ戦法だ」の一言で返されてしまいました。当時、三国志をほとんどしらなかったので黙ってしまいました。
後に何故「三国」志かというと「本当に有能な人物」がいなかった時代だったからダラダラと3国で戦いが続いたというのを読んで納得させられました。天才、諸葛孔明のあだ名は「伏龍」(龍が伏せている)。伏せているだけなので立てばすぐ「龍」・・・のはずなのに、劉備玄徳の死後、「独り立ち」しても三国家統一できずに死んだと聞かされました。
でもしかし現在も三国志に詳しくない自分はまた聞きだったりまたまた聞きだったりなので何とも言えません。間違っていたらすみません。。。けど・・・これだけ聞くとホントはあんますごい人物が出てない時代だったんじゃないの?との思いも出てきてしまいます。
それに、その友人、今思うと世に通説としてある三国志を史実と思ってたフシがあるんですよね。一般に流布している三国志は「三国志演義」を元にしており、これは「通俗歴史小説の先駆」と評されるように 千年以上も後の明時代になってから書かれた娯楽小説なのです。
楠木正成も「三国志」よろしく「太平記」という物語の中での姿が一番多い。ただ太平記は後醍醐天皇の崩御後20~30年には成立してましたし、足利方の武将今川了俊の「難太平記」という反論文?もあることから「三国志演義」よりはまだまだ信用がおけるものじゃないかなあと思います。(一部と二部だけですけど。三部からファンタジー小説になってしまいます)その他、当時の日記や足利幕府の記録にも残されており、そこからも推察されています。
楠木正成の出自は諸説ありハッキリとは判りませんが、河内国(大阪南部)の土豪だったのは確かです。当時、身分の上下が厳しく、河内の土豪程度が天皇という超身分の方と「直答」(直接話すこと)できるなんて事はありえないのです。が、後醍醐天皇はこのような「(身分的に)卑しい武士」とも屈託なく交わったそうです。なにせ真言立川流という有名な「淫祠邪教」にも手を出していたと言われている程ですから。この後醍醐天皇ですがちょっと誤解というか良いほうに見られているところがあるんですよね。
例えば「民のために四海を太平にならしめる」事を遺言として崩御します。この遺言を守り遺児の「後村上天皇」は北朝が滅ぶまで戦う事を胸にする・・・のです。おかげで、子孫の南朝はなかなか妥協をしませんでした。しかして本当に目的は「民のため」だったのでしょうか。
鎌倉時代の中頃、後嵯峨天皇というお方がおりました。この後嵯峨天皇はどうやら長男より次男の方が好きだったらしく、長男が天皇になるとすぐ、次男に天皇を譲るようにしました。この事が原因で天皇家は2派に別れてしまいます。持明院統と大覚寺統に。後醍醐天皇はこの2派のうちの大覚寺統の一人であり、しかも次男。ですが後醍醐天皇は「自分の子孫だけが天皇家を今後、継いで行くべきだ!絶対絶対にだ!!」と考えたようです、つまり「天皇家を継ぐにふさわしいのは自分だけだ」なんでそうなるのかはさっぱりわかりません。だって2派のうちの1派、しかも長男ならまだしも次男の家系なんです。でもそれだけエネルギッシュな御方だったという事は確かです。
物語には主題がある場合があります。例えば平家物語。その出だし。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」そう平家物語の主題は「諸行無常」。あれだけ栄華を誇った平家、倒せるとは思えなかった平家もむなしく散る。この世に絶対などありえない。全てこの世は諸行無常・・・ってことでしょうか。
では太平記。「(・・・天の徳なり。)もしその徳欠くる時は、位ありとても持たず。・・・戒めを既往に取らざらんや。」(天の徳、それが欠ける場合にはいくら高い位であってもそれを維持することはできない。歴史を見て学ぶべきだ)
これって後醍醐天皇を指して言ってるんですよねえ、やっぱし。相手は天皇なので直接酷いことは書かれてないというか書けない。ので、ぼやかしてある。太平記はそんな感じらしいんです。でもやっぱり結論は「徳が無い帝王は滅ぶ」が主題。太平記を読むと前半の主人公、後醍醐天皇はびったし当てはまってしまうんですよね・・・💦忠実な家臣を裏切ったり(その家臣は鎌倉幕府に斬首される)地方に出向く自分の皇子にもウソをついたりと・・・そして後醍醐が始めた建武の親政のめちゃくちゃさは二条河原の落書(落書き)で表されました。
「この頃 都に流行るもの 夜討 強盗 謀(にせ)綸旨(ニセの天皇の命令書の事)」
ニセモノが簡単につくれる、それくらい綸旨を乱発していたんです。しかも朝令暮改(朝の命令が夕には変わる)も数々。武士たちは不満がつのっていきます。結果、源氏の名門 足利尊氏に武士の期待が集まる。当然、後醍醐天皇は面白くなかったのでしょう。尊氏が恩賞に「征夷大将軍」にしてくれと何度もお願いするが、それは絶対に許さなかった。「征夷大将軍」は武士の棟梁であり武士の統括者。これに任命しては「幕府」を開かれてしまう。武士たちの政治が始まる。天皇親政をめざしていた後醍醐天皇はいくら酷い政治だと言われようがそれだけは許せなかったのです。。。
オッサンの方々(笑)にはわかると思いますが 昔「ゴダイゴ」ってバンド?があったんですよね。印象深いのは「西遊記」(実写版)の主題歌「モンキー・マジック」そしてエンデイング曲「ガンダーラ」。このバンド名「ゴダイゴ」はこの後醍醐天皇から取ったそうです。理由は「なにかエネルギーを感じたから」だそうで。事実、後醍醐天皇には帝王としての格というか凄みがあったそうです。しかし、それは「徳がある」という事にはどうやらならなかったようですねえ・・・。
で、やっと楠木正成の出番ですが・・・今日も調子が無くなってきました💦💦
続きは書けたら後ほどに・・・・🙇