履歴、経歴??
持病病院の日を間違ってしまい、本日行くことになりましたです。
しみじみ部屋を見渡せば・・・大爆発中です。
暖かく(もうなってる気がしますが)なる前に何とか片付けて虫対策(主にゴキブリ)をしないと。って、コンバット等の駆虫剤を置くだけですけど。とは言え春はあまり体調が優れず手つかず。先日は積み上げた古い本が崩れてきました。ここに引っ越すとき8割を捨ててきたのも早ひと昔。もう雑誌やら本が増えてしまいました。ネットだけではなかなかダメな年代なんですかねえ??
崩れた本の中に昔々、自分の大叔父が作り親戚中に配った「家系本と系図」が出てきました。
系図と言うのは明治期以降は「先祖は武士」、江戸時代は「先祖は源氏」と誰でも言うのが定番です(笑)「系図探し」という職もあったそうです。でも「系図探し」とは名ばかりで都合よく系図を作り上げてしまう事の方が多かった。また没落した家系を見つけ出して強引にその家系と結びつけたりするそうで、これらを別名「系図買い」とも言いました。
なにせ江戸幕府の開祖、徳川家康からして朝廷では「源の朝臣(あそん)家康」と「源氏」を名乗ってました。が、「三河物語」によればホントは「賀茂氏」と言われてます。戦国初期には「藤原氏」も名乗っていたそうです。
「そっか、征夷大将軍には源氏しかなれないから系図買いしたんだなー」と思っていましたが、源氏を名乗り始めたのは「桶狭間の合戦」で織田信長に今川義元が討たれ、今川氏から独立した頃だとか。その頃はまだまだ小大名。とても「将来、将軍になるから今から変えとくか」と考えたとは思えません。これは義元亡きあとの今川家に対抗する為だったのでしょうか。今川は正統な源氏で足利将軍家にも連なっていましたから。これに家格でも対抗しようとしたのでしょうか。
家康の「系図買い」は当時の関白にたのんで源氏「新田義貞」の家系と結びつけてもらったものでした。新田氏の一族、得川なにがしが旅の僧となって三河に流れてきて、松平家の娘と恋仲になり、婿養子として松平家をついで「得川」を「徳川」に変えたとかなんとか。ロマンチックだけどすげー強引な結び付けですね・・・。ともかく以後家康が新田源氏を名乗ったため、上州新田郷で細々と続いていた新田の子孫(岩松氏)がいきなり「将軍家のご先祖の家」に。江戸時代には知行を得た上に特別優遇の高家旗本になったそうです。関係ないのに無理やり親戚にされた岩松氏は「気分悪ぃ~」もしくは「棚ぼたラッキー♡」どっちだったのか。やっぱ「棚ぼたラッキー♡」だったでしょうかねえ。でも岩松氏は家宝?の家系図を徳川家に提出するよう言われたけど、それを断ったとか。。。
ちなみにこの「源氏」には秀吉も悩み、一時足利将軍家の養子になる事で「源氏」になろうとしました。でも頓挫。そこで朝廷を利用。五摂家(摂政、関白を出せる家)のうちに養子として入り込み六摂家目「豊臣」と名乗ることにしました。・・・って、簡単に書けますがこれは今考えるよりほんっ~~~~~とに凄い事でどれだけの壁があったことか。近代以前の身分の壁というのは物凄かったんです。なのに人身最高の位「関白」に。上にはもう天皇陛下しかおられない位階なのです。「平家にあらずば人にあらず」の平清盛も太政大臣でしたから(でも武家で初めて従一位に上ったんだから、こっちの方がすごいかな。)やっぱり金銭と武力に最後は物を言わせたんでしょうか。
・・・でも天下人になるちょっと前から平氏は名乗っていたそうで、これは信長の関係からでしょうか?やっぱし源氏に比べて平氏は名乗りやすかったんでしょうかねえ。。。
この時代、「人身最高の位」関白になるより「武士の棟梁」将軍になる方が難しかった、という事の方が興味深い。秀吉は従三位権大納言に任官したとき将軍職も進められたそうですが断ったと言われます。秀吉といえども「源氏しか征夷大将軍になれない」を打ち破れなかったのでしょうか。それくらい当時の「源氏」(身分)は重要だったんですねえ(それがタテマエとしても)。
そこでふと思いますが「織田信長」はどうする気だったんでしょうかねえ。信長は「平氏」だから、当然このままでは征夷大将軍にはなれない。織田氏は南北朝時代の守護代時代以前から平氏を名乗っているので「系図買い」も無理。やっぱ「関白」系ですかねえ?信長は領地を回復するとすぐに朝廷や公家の荘園を回復したので朝廷に忠実と見られていました。でも信長は右大臣になっても三日でやめてしまう程です。恐らく、既成の権威には振り回されなかったかもしれないですねえ。そういえば「副将軍」も辞退して代わりに堺の統治権を将軍義昭からもらってますよね。鉄砲調達(玉薬)という大目標があったからと言われますが、やっぱり既成の権威に入るのを嫌ったのでしょうか。信長は晩年、自分を神としてあがめるよう、影向石(神が乗り移った石)を安土に作り、庶民に拝ませたそうです。そこから考えると幕府でもない、朝廷でもない、「新しい権威」を作ろうとしてたんでしょうか。それが進んでいけばもう一波乱あったあったかもしれません。が、「前右大臣」のまま政権は秀吉に移ってしまいましたから・・・。
でもまあ日本人はもとを辿ればやっぱり源平藤橘につながってるのかも。国津神、天津神の子孫なのかもしれません。
(いろんな本読んでごちゃまぜだから間違ってたらすみません。。。)
しみじみ部屋を見渡せば・・・大爆発中です。
暖かく(もうなってる気がしますが)なる前に何とか片付けて虫対策(主にゴキブリ)をしないと。って、コンバット等の駆虫剤を置くだけですけど。とは言え春はあまり体調が優れず手つかず。先日は積み上げた古い本が崩れてきました。ここに引っ越すとき8割を捨ててきたのも早ひと昔。もう雑誌やら本が増えてしまいました。ネットだけではなかなかダメな年代なんですかねえ??
崩れた本の中に昔々、自分の大叔父が作り親戚中に配った「家系本と系図」が出てきました。
系図と言うのは明治期以降は「先祖は武士」、江戸時代は「先祖は源氏」と誰でも言うのが定番です(笑)「系図探し」という職もあったそうです。でも「系図探し」とは名ばかりで都合よく系図を作り上げてしまう事の方が多かった。また没落した家系を見つけ出して強引にその家系と結びつけたりするそうで、これらを別名「系図買い」とも言いました。
なにせ江戸幕府の開祖、徳川家康からして朝廷では「源の朝臣(あそん)家康」と「源氏」を名乗ってました。が、「三河物語」によればホントは「賀茂氏」と言われてます。戦国初期には「藤原氏」も名乗っていたそうです。
「そっか、征夷大将軍には源氏しかなれないから系図買いしたんだなー」と思っていましたが、源氏を名乗り始めたのは「桶狭間の合戦」で織田信長に今川義元が討たれ、今川氏から独立した頃だとか。その頃はまだまだ小大名。とても「将来、将軍になるから今から変えとくか」と考えたとは思えません。これは義元亡きあとの今川家に対抗する為だったのでしょうか。今川は正統な源氏で足利将軍家にも連なっていましたから。これに家格でも対抗しようとしたのでしょうか。
家康の「系図買い」は当時の関白にたのんで源氏「新田義貞」の家系と結びつけてもらったものでした。新田氏の一族、得川なにがしが旅の僧となって三河に流れてきて、松平家の娘と恋仲になり、婿養子として松平家をついで「得川」を「徳川」に変えたとかなんとか。ロマンチックだけどすげー強引な結び付けですね・・・。ともかく以後家康が新田源氏を名乗ったため、上州新田郷で細々と続いていた新田の子孫(岩松氏)がいきなり「将軍家のご先祖の家」に。江戸時代には知行を得た上に特別優遇の高家旗本になったそうです。関係ないのに無理やり親戚にされた岩松氏は「気分悪ぃ~」もしくは「棚ぼたラッキー♡」どっちだったのか。やっぱ「棚ぼたラッキー♡」だったでしょうかねえ。でも岩松氏は家宝?の家系図を徳川家に提出するよう言われたけど、それを断ったとか。。。
ちなみにこの「源氏」には秀吉も悩み、一時足利将軍家の養子になる事で「源氏」になろうとしました。でも頓挫。そこで朝廷を利用。五摂家(摂政、関白を出せる家)のうちに養子として入り込み六摂家目「豊臣」と名乗ることにしました。・・・って、簡単に書けますがこれは今考えるよりほんっ~~~~~とに凄い事でどれだけの壁があったことか。近代以前の身分の壁というのは物凄かったんです。なのに人身最高の位「関白」に。上にはもう天皇陛下しかおられない位階なのです。「平家にあらずば人にあらず」の平清盛も太政大臣でしたから(でも武家で初めて従一位に上ったんだから、こっちの方がすごいかな。)やっぱり金銭と武力に最後は物を言わせたんでしょうか。
・・・でも天下人になるちょっと前から平氏は名乗っていたそうで、これは信長の関係からでしょうか?やっぱし源氏に比べて平氏は名乗りやすかったんでしょうかねえ。。。
この時代、「人身最高の位」関白になるより「武士の棟梁」将軍になる方が難しかった、という事の方が興味深い。秀吉は従三位権大納言に任官したとき将軍職も進められたそうですが断ったと言われます。秀吉といえども「源氏しか征夷大将軍になれない」を打ち破れなかったのでしょうか。それくらい当時の「源氏」(身分)は重要だったんですねえ(それがタテマエとしても)。
そこでふと思いますが「織田信長」はどうする気だったんでしょうかねえ。信長は「平氏」だから、当然このままでは征夷大将軍にはなれない。織田氏は南北朝時代の守護代時代以前から平氏を名乗っているので「系図買い」も無理。やっぱ「関白」系ですかねえ?信長は領地を回復するとすぐに朝廷や公家の荘園を回復したので朝廷に忠実と見られていました。でも信長は右大臣になっても三日でやめてしまう程です。恐らく、既成の権威には振り回されなかったかもしれないですねえ。そういえば「副将軍」も辞退して代わりに堺の統治権を将軍義昭からもらってますよね。鉄砲調達(玉薬)という大目標があったからと言われますが、やっぱり既成の権威に入るのを嫌ったのでしょうか。信長は晩年、自分を神としてあがめるよう、影向石(神が乗り移った石)を安土に作り、庶民に拝ませたそうです。そこから考えると幕府でもない、朝廷でもない、「新しい権威」を作ろうとしてたんでしょうか。それが進んでいけばもう一波乱あったあったかもしれません。が、「前右大臣」のまま政権は秀吉に移ってしまいましたから・・・。
でもまあ日本人はもとを辿ればやっぱり源平藤橘につながってるのかも。国津神、天津神の子孫なのかもしれません。
(いろんな本読んでごちゃまぜだから間違ってたらすみません。。。)