令和が始まってはや一月。(長いので読まないほうがよろしいと思います)
令和が始まってはや一月、今年も半分が過ぎ去ろうしています。
そしてふと思う事。何故かピカソという画家を思い出しました。普通パブロ・ルイス・ピカソと書かれますが、本名(洗礼名)はもっと長くてとても覚えられないくらい。後にパブロ・ピカソと呼称。
ピカソと言えばその画風は「キュビズム」とされますが実は何度も画風を変えているのです。最初は写実主義。まさに写実的な画風でピカソの初期のデッサンは「写真の如く」と言われた程。
ピカソ誕生の頃にはすでに写真技術がありました。その写真に対抗しようとしたのが「印象派」とも言われます。
日本で西洋画と言えばまず上がるのが「印象派」です。「印象派」とはそれまでの風景画と違い、自然の光を普通に「目で見えたまま」に表現したものです。「そんなの当たり前じゃん」と思うかもしれませんが、写実主義にはない「光の移ろい」をも描き出したのです。消え入るような「一瞬の光の風景」。そんな感じが「印象派」ですね。そんな「印象派」なんですが、後にモネ(印象派の代表的な画家)が写真を参考にして描いていた事を告白しています。確かモネだったと思います。「一瞬の光」を留めるのも写真の方が上だったんですねえ、やっぱし(涙)
でも当時の「印象派」は今でいえば「パンク」みたいなもの。
写実主義やロマン主義、新古典主義など、人物や主に神話や伝説を主題にして写実的に描く絵画が全盛のフランス美術界ではまさに異端児。その上、美術界の重鎮からは「猥褻美術」という名で呼ばれたりして…。でもなぜ「印象派」が「猥褻(わいせつ)」なのか、、、まあ…後々書ければいいなあ、と。。。
しかし今やその「印象派」が美術界のアカデミズム的存在になっているのですからねえ。30年前、アニメやオタクと言えば「危ない趣味」と見られていたのに、現在はアニメ・オタク文化が「クール・ジャパン」の中心、みたいなものです。
ピカソはその時代に流行った流派の絵を描いていきました。写実主義を皮切りに後期印象派、アール・ヌーボー、表現主義、シュルレアリスムと流行りの絵を描き、常に「売れていた」状態だったようです。ゴッホが生前には全然売れず、弟のテオが買い取ってくれるだけだったのとはまさに対照的。そんなゴッホにくらべてピカソは常に生活できるくらい「売れっ子」だった様です。しかしピカソの心には自分の思う絵を描きたいという思いが常にありました。
1907年に描いた「アビニヨンの娘たち」
当時アビニヨンには売春宿があり、その娼婦5人の裸を描いたものですが、これが歴史上初めてのキュビズム作品と言われます。キュビズムとは自然をより単純な形としてとらえて描く形態で、セザンヌの「自然は球、円柱、円錐で出来ている」という言葉にインスピレーションをうけたものとされる。それにアフリカの単純な木像などプリミティブ(原始的)な造形に。
セザンヌは「現代芸術の父」とも呼ばれゴッホよりちょっと前の人。画風は後期印象派に入ると思います。でもゴッホは自殺(説)なのでセザンヌの方が長生きです。セザンヌも生きている間はゴッホと同様、ほとんど美術界からは顧みられず、父の遺産が入るまでは苦しい生活を送ったようです。しかもパース(遠近法)を無視したような絵や前述の「球、円柱、円錐」を思わせるような絵を描きながら有名な美術展「サロン・ドートンヌ」など、「サロン」に応募しては落選するという事を繰り返していました。
セザンヌの画風は写実主義、ロマン主義(主に神話や伝説を写実的に描く)全盛の展覧会に「それはないだろ」的な作品ですからねえ。まあ、落ちてしまいます。。。ちなみに印象派の画家たちもこの「サロン・ドートンヌ」に応募して落選した組。その落選した者たちが開いたのが第一回「印象派」展。彼らも最初は時代にハブられた者たちだったんです。なにせ「猥褻」ですからねえ。ですが、こっちは後々生きてる間に日の目を見る人が出てきますけど。。。「クール・ジャパン」(笑)
そんな生前を極貧で過ごす現代芸術の先駆者の中では、ピカソは出発から「売れていた画家」でした。と言っても最初はやはり苦しかったようですが、子供の頃からその画力は評価されていて幾つもの賞を受けていました。そんな彼が突然「キュビズム」という今までにない画を描いたのです。そしてそれをパトロンの評論家である画商(名前を忘れましたが有名な人)に見せます。「これからこういう絵を描いていきたい」
その時、ピカソは自信満々だったようです。しかしながら画商は眉をひそめました。「こんな絵を描くのはやめなさい」ピカソはショックだったでしょうねえ、きっと。彼(画商)ならこの絵の価値を認めてくれると思って見せたはずですから。なぜならその画商は当時、前衛画家を沢山支援してたので。
セザンヌやゴッホであったら画商からそう言われても自分の画風を貫いたことでしょう。しかしピカソはこの画商の言葉を受けて表向きはあっさりキュビズムをあきらめて、画商が言う「売れる絵」を描いていきました。しかし裏ではジョルジュ・ブラックなどと親交しキュビズムの研究を進めています。時々美術史なんかでピカソの1910年~12年時代を「分析的キュビズム」時代とか言われますが、それは言わば裏の歴史でしょうね、たぶん。時々キュビズムを展覧会に出品してますが表では表現主義の絵(流行りの絵)を描いていましたから。
ちなみにこの「キュビズム」という名もジョルジュ・ブラックの絵に多数登場する立体(キューブ)から来ているんです。だからやっぱ、この時代のキュビズムの第一人者はジョルジュ・ブラックでしょうねえ。そんなキュビズムが日の目を見る日がきます。
1936年ピカソ作「ゲルニカ」
祖国スペインの内戦。その時フランコ軍に協力したナチス・ドイツ軍は新兵器の実験場としてスペイン内戦を利用しました。急降下爆撃機Ju 87 スツーカの実戦もこの時だそうで。この内戦でナチスによる無差別爆撃を受けたゲルニカ村の惨状を万国博覧会の壁画として描くことになったピカソは当時の最先端シュールレアリスム風の画風にあわせ総合的キュビズムの絵を描きました。世界はこの時、初めて「キュビズム」という絵画の流派を認識したと言います。孫子に言う「天の時」がこの時だったのでしょう。1907年に描いた「アビニョンの娘たち」から正に30年。やっと「キュビズム」が世界に認められた時でした……。
一面をみるとピカソは常に時代の波に乗っかっていた「流行作家」な様にも見えます。(キュビズムが認められてからはキュビズム一辺倒ですが)対してセザンヌやゴッホは極貧に瀕しても自分の画風を追い求めた様にも見えます。でもセザンヌもゴッホも自分が時代から外れているとは思っていなかったと思います。結局死後に認められるのですが、それが本当に幸せだったのでしょうかねえ。。。
対するピカソは生前に大成功しました。ピカソは確か妻を含めて愛人が6人(5人だっけ?ちょっと忘れてしまいました)いたそうですが、ピカソの死後、その愛人からなんの訴えも起こらなかったそうです。何故なら遺産が莫大で愛人全員で分けても充分過ぎるほど。なので文句が出なかったそうなのです。すげーなあ…。。。
…と、なんでこんな事を急に思い出したか判らないのですが最近、近親者が他界しました。だからかもしれません。もうかなり前、学芸員資格(資格って言うのかな??)を取る時に読んだ中原祐介の本&朝日百科「世界の美術」から、うろ覚えで書きました。間違いがあったら本当にすみません…。
追伸
第一次世界大戦の時、兵器に塗られた迷彩塗装を見たピカソは「あれこそが私たちが考え出したものだ」というような事を言ったそうです。「自然を単純な形態で表現する」これがモダニズムの出発点でもあったからでしょうねえ。。。
追伸2
ピカソのデッサン集というのがあります。いや、クロッキー(早描きデッサン)集ですね。これがまた女性のアソコの絵ばっかり。キュビズム作品でも何故か性器だけははっきりわかるものなんかもあります。シュールレアリスムの影響ですかねえ(笑)
ピカソのクロッキー集は大きい図書館なら多分置いていると思います。
最後に…「ピカソより~、ゴッホより~、普通にィ~、〇ッセンが好~き~‼ハイ!!!」ではありません(笑)確かにピカソも好みじゃないけれど。古っ!!
そしてふと思う事。何故かピカソという画家を思い出しました。普通パブロ・ルイス・ピカソと書かれますが、本名(洗礼名)はもっと長くてとても覚えられないくらい。後にパブロ・ピカソと呼称。
ピカソと言えばその画風は「キュビズム」とされますが実は何度も画風を変えているのです。最初は写実主義。まさに写実的な画風でピカソの初期のデッサンは「写真の如く」と言われた程。
ピカソ誕生の頃にはすでに写真技術がありました。その写真に対抗しようとしたのが「印象派」とも言われます。
日本で西洋画と言えばまず上がるのが「印象派」です。「印象派」とはそれまでの風景画と違い、自然の光を普通に「目で見えたまま」に表現したものです。「そんなの当たり前じゃん」と思うかもしれませんが、写実主義にはない「光の移ろい」をも描き出したのです。消え入るような「一瞬の光の風景」。そんな感じが「印象派」ですね。そんな「印象派」なんですが、後にモネ(印象派の代表的な画家)が写真を参考にして描いていた事を告白しています。確かモネだったと思います。「一瞬の光」を留めるのも写真の方が上だったんですねえ、やっぱし(涙)
でも当時の「印象派」は今でいえば「パンク」みたいなもの。
写実主義やロマン主義、新古典主義など、人物や主に神話や伝説を主題にして写実的に描く絵画が全盛のフランス美術界ではまさに異端児。その上、美術界の重鎮からは「猥褻美術」という名で呼ばれたりして…。でもなぜ「印象派」が「猥褻(わいせつ)」なのか、、、まあ…後々書ければいいなあ、と。。。
しかし今やその「印象派」が美術界のアカデミズム的存在になっているのですからねえ。30年前、アニメやオタクと言えば「危ない趣味」と見られていたのに、現在はアニメ・オタク文化が「クール・ジャパン」の中心、みたいなものです。
ピカソはその時代に流行った流派の絵を描いていきました。写実主義を皮切りに後期印象派、アール・ヌーボー、表現主義、シュルレアリスムと流行りの絵を描き、常に「売れていた」状態だったようです。ゴッホが生前には全然売れず、弟のテオが買い取ってくれるだけだったのとはまさに対照的。そんなゴッホにくらべてピカソは常に生活できるくらい「売れっ子」だった様です。しかしピカソの心には自分の思う絵を描きたいという思いが常にありました。
1907年に描いた「アビニヨンの娘たち」
当時アビニヨンには売春宿があり、その娼婦5人の裸を描いたものですが、これが歴史上初めてのキュビズム作品と言われます。キュビズムとは自然をより単純な形としてとらえて描く形態で、セザンヌの「自然は球、円柱、円錐で出来ている」という言葉にインスピレーションをうけたものとされる。それにアフリカの単純な木像などプリミティブ(原始的)な造形に。
セザンヌは「現代芸術の父」とも呼ばれゴッホよりちょっと前の人。画風は後期印象派に入ると思います。でもゴッホは自殺(説)なのでセザンヌの方が長生きです。セザンヌも生きている間はゴッホと同様、ほとんど美術界からは顧みられず、父の遺産が入るまでは苦しい生活を送ったようです。しかもパース(遠近法)を無視したような絵や前述の「球、円柱、円錐」を思わせるような絵を描きながら有名な美術展「サロン・ドートンヌ」など、「サロン」に応募しては落選するという事を繰り返していました。
セザンヌの画風は写実主義、ロマン主義(主に神話や伝説を写実的に描く)全盛の展覧会に「それはないだろ」的な作品ですからねえ。まあ、落ちてしまいます。。。ちなみに印象派の画家たちもこの「サロン・ドートンヌ」に応募して落選した組。その落選した者たちが開いたのが第一回「印象派」展。彼らも最初は時代にハブられた者たちだったんです。なにせ「猥褻」ですからねえ。ですが、こっちは後々生きてる間に日の目を見る人が出てきますけど。。。「クール・ジャパン」(笑)
そんな生前を極貧で過ごす現代芸術の先駆者の中では、ピカソは出発から「売れていた画家」でした。と言っても最初はやはり苦しかったようですが、子供の頃からその画力は評価されていて幾つもの賞を受けていました。そんな彼が突然「キュビズム」という今までにない画を描いたのです。そしてそれをパトロンの評論家である画商(名前を忘れましたが有名な人)に見せます。「これからこういう絵を描いていきたい」
その時、ピカソは自信満々だったようです。しかしながら画商は眉をひそめました。「こんな絵を描くのはやめなさい」ピカソはショックだったでしょうねえ、きっと。彼(画商)ならこの絵の価値を認めてくれると思って見せたはずですから。なぜならその画商は当時、前衛画家を沢山支援してたので。
セザンヌやゴッホであったら画商からそう言われても自分の画風を貫いたことでしょう。しかしピカソはこの画商の言葉を受けて表向きはあっさりキュビズムをあきらめて、画商が言う「売れる絵」を描いていきました。しかし裏ではジョルジュ・ブラックなどと親交しキュビズムの研究を進めています。時々美術史なんかでピカソの1910年~12年時代を「分析的キュビズム」時代とか言われますが、それは言わば裏の歴史でしょうね、たぶん。時々キュビズムを展覧会に出品してますが表では表現主義の絵(流行りの絵)を描いていましたから。
ちなみにこの「キュビズム」という名もジョルジュ・ブラックの絵に多数登場する立体(キューブ)から来ているんです。だからやっぱ、この時代のキュビズムの第一人者はジョルジュ・ブラックでしょうねえ。そんなキュビズムが日の目を見る日がきます。
1936年ピカソ作「ゲルニカ」
祖国スペインの内戦。その時フランコ軍に協力したナチス・ドイツ軍は新兵器の実験場としてスペイン内戦を利用しました。急降下爆撃機Ju 87 スツーカの実戦もこの時だそうで。この内戦でナチスによる無差別爆撃を受けたゲルニカ村の惨状を万国博覧会の壁画として描くことになったピカソは当時の最先端シュールレアリスム風の画風にあわせ総合的キュビズムの絵を描きました。世界はこの時、初めて「キュビズム」という絵画の流派を認識したと言います。孫子に言う「天の時」がこの時だったのでしょう。1907年に描いた「アビニョンの娘たち」から正に30年。やっと「キュビズム」が世界に認められた時でした……。
一面をみるとピカソは常に時代の波に乗っかっていた「流行作家」な様にも見えます。(キュビズムが認められてからはキュビズム一辺倒ですが)対してセザンヌやゴッホは極貧に瀕しても自分の画風を追い求めた様にも見えます。でもセザンヌもゴッホも自分が時代から外れているとは思っていなかったと思います。結局死後に認められるのですが、それが本当に幸せだったのでしょうかねえ。。。
対するピカソは生前に大成功しました。ピカソは確か妻を含めて愛人が6人(5人だっけ?ちょっと忘れてしまいました)いたそうですが、ピカソの死後、その愛人からなんの訴えも起こらなかったそうです。何故なら遺産が莫大で愛人全員で分けても充分過ぎるほど。なので文句が出なかったそうなのです。すげーなあ…。。。
…と、なんでこんな事を急に思い出したか判らないのですが最近、近親者が他界しました。だからかもしれません。もうかなり前、学芸員資格(資格って言うのかな??)を取る時に読んだ中原祐介の本&朝日百科「世界の美術」から、うろ覚えで書きました。間違いがあったら本当にすみません…。
追伸
第一次世界大戦の時、兵器に塗られた迷彩塗装を見たピカソは「あれこそが私たちが考え出したものだ」というような事を言ったそうです。「自然を単純な形態で表現する」これがモダニズムの出発点でもあったからでしょうねえ。。。
追伸2
ピカソのデッサン集というのがあります。いや、クロッキー(早描きデッサン)集ですね。これがまた女性のアソコの絵ばっかり。キュビズム作品でも何故か性器だけははっきりわかるものなんかもあります。シュールレアリスムの影響ですかねえ(笑)
ピカソのクロッキー集は大きい図書館なら多分置いていると思います。
最後に…「ピカソより~、ゴッホより~、普通にィ~、〇ッセンが好~き~‼ハイ!!!」ではありません(笑)確かにピカソも好みじゃないけれど。古っ!!