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ありえないの映画は面白い?

夏直前・・・いつもながら体調を崩しております。(特にお腹が・・・💦)しかしあんまり雨が降らない梅雨な気がします。それに毎年、6月中に1~2回は蒸し暑くてエアコンつける事があったのですが今年はまだない。7月に入っても最初のうちはエアコン使わずに済みそうかもと思っていたり。しかしカラ梅雨とも涼しい夏とも全然聞かないので個人の感想でしょうか。エアコン使用が少なくて済めばお財布的にも健全ですからねえ(笑)

久しぶりに「七人の侍」を観ました。ものすごく長くて劇場上映時には中間休憩の時間があったそうです。実際DVDは前後半二枚組ですしね。う~ん、やっぱ名作。黒沢のエンターテイメントは面白いです。以前書いたかもしれませんが高校の友人に洋楽好きがおり、物凄いアメリカかぶれで邦画は一切見ないという者がおりました。「七人のガンマンが七人の侍のリスペクトだと知ってるけど、見る気起きないな。白黒の上に侍だろ?」との発言。ホント見比べろと言いたくなりました。どれほどそっくりか。もちろんアメリカと日本、新しい設定もありますが飯とパンを掲げるシーンまでカットが同じ。きっといまだに見てないんだろうなあ。(「七人のガンマン」ももちろん面白いですけど)

ちなみに最近読んだ本で「七人の侍という時代はなかった」というのを読みました。時代背景は戦国時代、落ち武者の野武士に村が襲われる。百姓なので戦い方を知らない。なので乏しい資産をはたいて侍を雇う。・・・どこが変かというと戦国時代に「百姓なので戦い方を知らない」これがまずありえないだろうという事です。完全に士農工商の身分が確定した江戸時代の百姓ならそうなるかもしれないけど、領主から足軽として徴発されていた当時の農民(百姓)は決してヤワではなかったと。確かに秀吉が刀狩りをしましたが関ケ原までは戦国時代ですもんねえ。百姓足軽が多数いた事でしょう。映画の中にも出てきますが「落ち武者狩り」も横行してたわけですしねえ。映画の中で菊千代が自分の系図(盗んだもん)を頭の勘兵衛に見せるシーンがあります。その中で系図を読んだ勘兵衛が「え~と(生まれは)天正10年(14年?)・・・」その後大笑いして「この系図が正しいならお主は当年とって一三歳」と言うシーンがあります。ということは仮に天正14年生まれで13歳だとしたら時代は1599年。つまり関ケ原の1年前です。なるほど~「百姓なので戦い方を知らない」はなかったかもしれませんねえ。。。

しかし以前も書いたように、だからといって映画の価値が下がるわけではありません。むしろこれこそが映画のだいご味かもしれません。「ほんとうかもしれない」これがいい(笑)だから自分は「口裂け女2」が好きで白石晃士作品が好きなんです。

水無月(6月)は祭日がないそうです。。。

6月に入りました。今年も早半分。自分は何しとるんだろうと思う日々。。。思いは深いのです。
痛風以外にも静脈の血栓も見つかり今度は精密検査。また病院通いです。。。

ですので現在食事は野菜中心。主にキャベツ。時々甘いものが欲しくなりアンパンを食べたりします。なのに痛風による足の腫れが引きません。炎症を押さえる薬を2週間近く薬をのんでるのに。ある程度は小さくなったのですが、足首が特にひどく自在に上下できないんですよね。尿酸を下げる薬は時として腫れを酷くする事があるので腫れが引いてから使うというのでまだ出されていません。けど、相変わらずさして痛みはないのです。。。

久しぶりに「ラストサムライ」を観ました。ある映画評論に「トムクルーズが赤い鎧で戦う映画」と評されていましたが、そのまんまです。決して評価が高い映画ではないのですが何故かDVDは大量に販売されたようで一時期中古屋に大量に出回っていました。いまや100円以下でも買えます(笑)この映画の批評に「こんな時代ではなかった」というのがあります。自分はこの手の批評はナンセンスだと思うんですよねえ。昔「ターミネーター」を観た理系の知人がこんなものが「動くはずがない馬鹿らしい」と同じ感覚をうけます。ドキュメンタリーと銘うってるならまだしも「映画なんだし」。有名な映画評論家が「コア」というSF映画を批判している動画を観ましたが、あれじゃあ権威あるSF賞をとるような作品以外認めないみたいになっちゃいそう。エイリアンなんか「あんな生物いるわけない」の一言になりそうです(悲)

「ラストサムライ」の批評もその部類が多いような気がします。時代は幕末。本当は既に幕府軍、薩長軍(官軍)ともに銃が主力でしたしね。「侍の誇りだ。銃など使わん」なんて大将はいなかったでしょう。いたかもしれないけど個人の部類だったでしょうしねえ。モデルは西郷隆盛(コメンタリーでそう言ってます)ということは西南戦争なのでしょうか。薩摩の切り込み隊を知ってああなったのかしらん?でも雰囲気は江藤新平の「士族の乱」っぽい。とにかく、日本にあんな時代はありませんでした。そこにこだわりがある方にはとても観れる映画ではないですねえ。その辺は「将軍」と同じ。関ケ原直前を描いたと思われる日本の話なのですが、もー無茶苦茶。家康に気に入られ外交顧問として仕えたウィリアム・スミス(三浦按針)の日本記が原案ということですが、家康に気に入られ戦国極後期を側で見た人の物とはとても思えません。マルコポーロの「ジパング」の方が合ってるような気さえしました(苦笑)外国人から見た思い込み日本像が多分に入ってるからでしょうねえ。
もちろん自分は日本人なので「ラストサムライ」でも、さらに「将軍」に至っては外人の偏見に「オイオイ」と思います。でも作品ですからねえ。そういうの抜きにして見れば面白かったと思います。アニメですけどきっと「ロードス島戦記」なんかも北欧では「なんじゃこりゃ」と思われているかもしれません。

まあこれも史観というものでしょうかねえ?有名なのはマクロス・・・じゃなかったマルクス史観。これが何故悪いかというとマルクス理論が正しい、あるいはマルクス主義の正しさを説く為に歴史を見る、という事だからだそうで。例えば「奈良の大仏は職人が作った。聖武天皇ではない」と言うようなやつ。なんだか屁理屈っぽいですけど要するに「民衆の力がすべて」ということです。「加賀の一向一揆」なんかいい例で興福寺の尋尊が日記に「百姓の持ちたる国」と記されているのを見て「これは農民革命だったのだ」と言った歴史の教授がかつていたそうです。確かに百姓が起こした一揆ですがそこには「一向宗」という強大な仏教の思想があったことをわざと軽く見る。何故ならマルクス主義に言わせれば「宗教はアヘン」なので否定すべきものだから。そして一揆を指導したのは一向宗の僧であり、国人という地方領主であったことを無視しちゃってる。僧や領主が主軸では農民革命とは言えなくなっちゃいますからねえ。それにこの時代、特に地方では百姓と武士ははっきりと区別できなかったりもする。なのにとにかく「労働者階級の事績は過大に評価する」のがマルクス史観らしいです。昔は経済学もマルクス経済しか教えてないと言われましたが、さすがに今は違うでしょうねえ。

やっと「応仁の乱」を買いました。

やっと「応仁の乱」を買いました。
病院帰りに某大手ゲーム等量販店で平積み。ここの本屋はすこ~しだけ流行りからずれるのであるだろうなあと思っておりました。

以前読んだ記事によると「一番わかりやすい応仁の乱の本」となっていた気がしますが、思った通りある程度日本史を知っていないとちょっと難しい本かもなあとも思いました。前文で「けっこう知ってる普通の人でも応仁の乱と聞かれれば、室町幕府が衰え戦国時代が始まった乱、程度だろう」様な事を書かれているのですがその程度の人に「明応の政変」や「強訴」があまり説明なく書かれてあるのはキツイかもとも思います。やっぱ「ある程度知ってる人」でなくては辛いかもなあと感想を持ちました。

ちなみに「明応の政変」とは応仁の乱の後の明応2年、11代将軍の足利義稙を管領(幕府No2)の細川政元が自分の意が効く足利清晃に変えた事件。清晃はこれより足利義澄を名乗り12代将軍になりました。このクーデターを操った細川政元は「半将軍」と言われました。

細川政元は面白く大守護大名家の主人で管領ありながら修験道、特に飯縄法の修験者であったために30超えても妻を持たず、孔雀明王法を極めていて空を飛べると当時は信じられていたんですよね。そんな術師ですが結局、反対派に暗殺されちゃうんですけど。空を飛んで逃げればよかったのに(苦笑)しかも死後、妻がいなかった為に応仁の乱よろしく細川家の跡継ぎ争いが起こり、細川家は衰退していくんです。

ちょっと話がそれましたが、だがしかし、確かに読みやすく面白い。特に室町期から戦国時代の寺社勢力、つまり宗教勢力がドレだけひどく、宗教権威を笠に着て横暴をしたかという事もわかります。お寺さんが自分勝手な論理で僧兵を繰り出して勝手な戦争をしたかが書かれています。前述の「強訴」とは比叡山が有名ですが比叡山の日吉大神の神輿を僧兵が担いで(神仏混交なので)幕府や朝廷に無理やり訴える事です。僧兵たちは京都に火付けしたり乱暴狼藉を働きますが神輿のおかげで手が出せませんでした。しかも比叡山の僧兵兵力は大大名にも匹敵してて、他の仏教寺を気に入らないと攻めたりしてました。後に神仏を恐れない織田信長の比叡山焼き討ちもしゃーないと改めて思わせます。

またまた話がそれましたが、最近の研究で「戦国時代」の始まりはこの「明応の政変」(細川政元による室町幕府失墜、下克上旺盛)からではないか説が有力になったそうです。が、著者はどうやら「戦国時代の始まりはやっぱり応仁の乱だ」と言いたいのだと思います。自分も同感というより、そっちの方がいい(笑)

以前も書きましたが日本の3つの大戦を挙げて 壬申の乱 応仁の乱 大東亜戦争 この中で一番日本を変えたのはどれかと言う質問がありました。1位は圧倒的に大東亜戦争でした。次は壬申の乱。応仁の乱は一番評価が低かった。これは応仁の乱がとても判りにくい乱だという理由もありそうです。しかし昭和の日本史の大家の中には「日本史を仮に二分するなら応仁の乱以前と以後になる」この乱以前と以後は価値観が全く変わったと言う。

たぶんこの本この視点で書かれているのでしょう。とにかく「戦国時代は応仁の乱から」がいいです~(笑)
この時代好みであればおススめの本ですね~。

趣味の話・・・怨霊です。。。

先日、病院に行った折、久しぶりに本屋に寄りました。

探していたのは、なんだか売れたと言う「応仁の乱」(確か「わかりやすい」とか?)ま、アマゾンで注文すれば済む話ですがついでなので。大き目の本屋だったのですが見当たらず別の本を買いました。

「怨霊とは何か」怨霊大好きな私(苦笑)はビンボーな中、思わず買ってしまいました。

内容はどうやら三大怨霊らしいです。三大怨霊とは菅原道真、平将門、崇徳院の事です。三大怨霊と言われる理由は国を揺るがす程のタタリを起こしたから。中でも崇徳院は「日本一の大魔縁」と言われ恐れられた大魔王です。しかしこれらの逸話は江戸時代の歌舞伎や謡曲などの創作物の影響である、というのが本論らしい。

前文で「霊魂とは何か」で日本の霊魂感を解説されているのですが、毎度ながらちょっと引っかかりました(またかい!!)万葉集の霊魂を詠んだ歌から「古代の時代、天皇家は神として天に昇るという意識が既にあった」と解説しています。その例が弓削皇子(ゆげのみこ)の死を悼んで詠んだ歌。弓削皇子は天に上り「神ました」(神殿に鎮座)。同じ時期、庶民は土葬だったので「山」へいったらしいこと。「山は異界」つまり山は霊界だった。

・・・だけど、弓削皇子と同じ時期の「大津皇子」は何故か「山の異界」に行ったと言う。ちなみに弓削皇子も大津皇子も同じ時代の人でおなじく天武天皇の皇子。弓削皇子は天に行き「神まして」、一方大津皇子は「山の異界」に行くって・・・なんかおかしくないかしらん??

この本をまだ全部読んでいないのですが、前文を読む限り「怨霊信仰」の一番最初は通説通り、早良親王(さわらしんのう)としています。

以前書きましたが早良親王とは桓武天皇の同母弟で皇太子だった人。しかし、桓武天皇は後から生まれた自分の子に後を継がせたくて罪をでっち上げて早良親王を廃皇子してしまいます。早良親王は無実を訴え食を断ち餓死。憤死(いかりを抱えたまま死ぬ)しました。この早良親王の怨霊を恐れた桓武天皇は794年、京都に都を移します。これが一番最初の怨霊と言われているし、歴史の通説ですが・・・これだといきなり突然、桓武天皇は怨霊を恐れ始めた、という事になります。まあ、おそらく看病禅師や呪禁師が「これは早良親王の怨霊のせいだ」と言ったんだと思いますが、本当にここでいきなり怨霊信仰が始まったのでしょうか。

歴史家の中では否定されてるようですが、実は早良親王以前から怨霊信仰はあったと言います。これを言ったのは小説家や哲学者、在野の研究家。早良親王のタタリはあまりにもすごかった?ので隠しきれず、仕方なく正史に載せたのだと。それ以前にも怨霊が跋扈していたからこそ桓武天皇は「怨霊のせいだ」と言われて都を移すまでの事をしたというのです。

ちなみにそれ以前の怨霊ではないかと言われている方々は聖徳太子、山背大兄王(聖徳太子の子)、有間皇子・・・そして「大津皇子」。

この著者の方はしらないうちに「大津皇子は皇子でありながら、山という異界にとどまった」事を言ってるんですよね。それって大津皇子がプレ怨霊(まだ正式に怨霊と認められてないから)だったからではないでしょうか・・・って、狙ってこう書いたのかしら???ちなみにこの時代 高貴な人が亡くなれば殯(もがり)をしたはず。7世紀後半ですから古墳は作られず・・・土葬になったのです(つーか、二子山の山頂に埋めたとある)

「天に上る」方も「山の異界」に行く方もまず同じく母なる大地に埋められたんですねえ。火葬は700年、僧の道昭からと言われます。天皇の最初の火葬は702年崩御の持統天皇だそうです。火葬は煙となり天に上る。そして万葉集では「雲」になったそうです。

・・・まだ途中(というよりまだ1章)なので読み進めたらまた感想を書こうかと思います。

11月「鎮魂論(笑)」

先月はどこか暗鬱とした気分で体調がよくありませんでした。
今年は雨の多い秋で つまり日照不足。野菜に影響が出ているのは周知されとりますです。なんせキャベツがバカ高いですから(苦笑)びんぼーにんの味方は相変わらずもやしですね~。

霜月に入り空気が冷え込んで少し頭がしゃっきりしたような・・・気がします。
そんな中たまたまyoutubeで薪能の挑戦と題する動画を見ました。照明に色を使ったり舞台を能舞台以外で行ったりと能も現代化をはかってるんですね。かつて演劇論の外人教授が「能には演劇のすべてが含まれている。現代にも続いている最古の仮面劇」と言ってました。古さから言えば紀元前ギリシャの仮面劇が一番古いのでしょうが現代にその本体が続いていませんもんね。最近復活したらしいですが古代の形ではないし。ある国は「元はわが国のものだ」と言っているそうですが仮にそうだとしても(間違いなく違うと思いますが)もはや其の国に残ってないことは間違いない。なにせ日本の場合 室町時代の面をいまだに使用してる劇ですからねえ。思えば「万葉集」をその国の言語で読める(つまりその国の言葉で書かれてる)とか公言されてるらしいですが、ムリあり過ぎだと思うのです。だってあれは日本語に漢字を当て字した「万葉仮名」で書かれてるんですから。つまり「よろしく」を「世露死苦」と書いているものなんです。それを他の国の言語で読めるとは・・・よくよくですねえ。何か知らない理論があるのかかしらん?

「能」も時代によってもちろん変化していますが(猿楽から能と呼ばれるようになったり)その本質は多分、室町時代あたりから変わってないと思います。世阿弥の「風姿花伝」は偉大なんですね~。「序破急」も日本文学の伝統です。

現代化したとしてもその演目と内容はやっぱり伝統的なもの。やっていたのは「船弁慶」でしたが本質は変わりませんでした。実は能の演目の大部分には「怨霊」がでてくるんですよねえ。「船弁慶」の後段には平知盛の怨霊が現れます。「巴」なんて「巴御前」の怨霊がシテ(主役)ですもんね。あんまり詳しくないんですが個人的に知ってるなかで怨霊がでないのは「安宅」(勧進帳)くらいしか知りません。

つまり「能」というのは「鎮魂劇」ということなのでしょうか。「怨霊を鎮魂する」のが目的なのでしょうか。鎌倉後期から室町くらいから寺社で演じられるようになったからそうなったんでしょうか。それともそれ以前から鎮魂を目的としていたのでしょうか。

思えば室町時代の代表文学「太平記」。後醍醐天皇の鎌倉幕府倒幕、新政をする物語。忠臣 楠正成。だけど足利尊氏の室町幕府設立によって楠正成は戦死。後醍醐天皇は奈良の吉野の地に逃れ、失意の末に崩御します。前半はまさに歴史物語であり戦記物なのですが後半はガラッと変わります。崩御した後醍醐天皇と戦死した楠正成が大怨霊となって復活し大暴れするファンタジー物語になってるんですよね。日本一の大魔王である祟徳上皇が金色の鳶となって現れ、後醍醐天皇や楠正成、その他の霊が会合してどうやって日本に乱を起こすか相談をする。民俗学者谷川健一は「魔の系譜」の中で「ここに怨霊の誕生を我々は見る」と書いています。つまり太平記も鎮魂の物語なのだと言っています。失意の内に死んだ者が怨霊になって暴れる話を描き、気持ちよくなってもらおうと。物語の中で暴れてもらって「現実には現れないように」と・・・。

以前書いた早良親王を恐れて京(平安京)を作った桓武天皇をはじめ、やっぱ日本は怨霊の国なんですね。一番最初に読んだこの手の本は20年前の小松和彦「鬼が作った国 日本」でした。日本は鎮魂の国、霊が神の国なんです。それ以来 怨霊が大好きになりました・・・怖いですけど(苦笑)
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エロ漫画家 藤咲 真です。


単行本は過去12冊
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